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    <title>若松バプテスト教会広場</title>
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    <description>週報扉と教会員の文章です。</description>
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    <title>あらゆる民族を受け入れてくださるキリストの視点から</title>
    <description>
先日、わが娘がカナダ人と結婚しました。モントリオールに住むことになります。結婚する二人は、ちょっと古風でおしゃれなウェディング衣装でしたが、こっちは生まれてはじめて紋付袴なぞという民族衣装に身を包んで、デジタルカメラで写真を取りまわるというあまり絵に...</description>
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<br />
先日、わが娘がカナダ人と結婚しました。モントリオールに住むことになります。結婚する二人は、ちょっと古風でおしゃれなウェディング衣装でしたが、こっちは生まれてはじめて紋付袴なぞという民族衣装に身を包んで、デジタルカメラで写真を取りまわるというあまり絵にならない格好をしておりました。<br />
わが配偶者も和服姿。でも妙な目で見る人はいなかったと思います。カナダは、本質的に移民の国で多民族国家だっていう自覚は強いですから。ただ、それは都会のこと。田舎の教会で行われたカトリック教会でのコンサートは、7・800人いたけれど、ほとんど白人でしたね。ネイティブが一人いたかな。田舎では他民族が一緒に暮らすという感じではありませんでした。<br />
いっしょに社会生活をしているけれども、民族でなんとなく分けられるということは避けられないようです。文化はやはりそうした人のつながりのなかで、育つものだからですしょう。それと「國」との関係が難しい。「國」は民族の代表であるというような顔をして、「國の文化」があるというふうに主張します。そういう主張に違和感のある人は、愛国心がないと言われるのでしょうか。日本では特にそういう主張が聞かれるようになりました。<br />
モントリオールに行けば、モントリオールが所属している、ケベック州の旗はあちらこちらで見かけますが、カナダの国旗は役所ぐらいにしかないのです。ケベック人だという自己認識は強いようです。ケベック料理はあるのですが、カナダ料理というのはあまりみかけません。<br />
日本でも、実際には江戸の文化、京都の文化、蝦夷の文化があります。日本料理という食堂よりも、京都料理という看板のあるほうが何かおいしそうに感じます。ましてやアイヌの文化や琉球の文化は、これは別の文化圏といったほうが良い。共通性もそうとうあるのでしょうが、それを「日本の文化」というように一くくりにすることに無理がある。日本の枠内にも多様な文化があるのです。そうした文化の枠としての國は胡散臭いのですが、軍事・外交・警察などについては、これはやはり國という枠が有効に働いているのでしょうね。その区別を、はっきりと分けて考えなければならないと思います。そのことは移住の民は国境を越えるたびに考えざるを得ないのです。<br />
聖書はあらゆる民族をあらゆる民族として、彼らのためにイエス･キリストの十字架があったと証言しています。<br />
黙示録5:9 そして、彼らは新しい歌をうたった。「あなたは、巻物を受け取り、／その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、／あらゆる種族と言葉の違う民、／あらゆる民族と国民の中から、／御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、／また、祭司となさったからです。<br />

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    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2007-05-20T10:17:49+09:00</dc:date>
    <dc:creator>栄盛川</dc:creator>
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    <title>慣れること、慣れてはいけないこと</title>
    <description>行きは15時間、帰りはたぶん13時間ぐらいかけてカナダのモントリオールを往復しました。3年前に行った時は、ひさびさの海外旅行だったので何から何まで珍しいことの連続でしたが、今度はビジネス旅行のような雰囲気でした。機内の過ごし方も手馴れたものです。
アメリカ...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<a href="images/img0003.jpg" target="_blank"><img src="images/img0003.jpg.200px.png" width="200" height="150" alt="" class="pict" /></a>行きは15時間、帰りはたぶん13時間ぐらいかけてカナダのモントリオールを往復しました。3年前に行った時は、ひさびさの海外旅行だったので何から何まで珍しいことの連続でしたが、今度はビジネス旅行のような雰囲気でした。機内の過ごし方も手馴れたものです。<br />
アメリカは今テロとの戦争をしているので、入国審査がとても厳しくなっています。前回チェックするために靴も脱げと言われて面食らいました。今度は、最初から靴も脱ぎます。ベルトも取ります。本当に何も金属類はもっていない、にもかかわらず一回だけボディチェックを受けました。相当金属探知機の感度が上がっているのでしょうか。両方の人差し指の指紋を取られました。写真も取られました。私は病気のため少し面容が変わっているらしく、かなりジロジロ見つめられました。前回なかったことでもありますし、こういうことには慣れたくないですね。<br />
もう一つ、時差ボケは前回よりも体にこたえたように思います。どこかに行こうという気持ちが少なく、かなり部屋の中で過ごしました。日本に帰った時には、ほとんど時差ボケはなかったので、何か工夫する方法があるように思います。今度行くときには何とかしたいですね。出かけた先で動けないようでは勿体無いですからね。<br />
わたしはこのところゆっくりと考える時間もなく、過ごしていたようなですが、こうした長距離旅行の何よりもいいところはとりとめもなく考えが浮かんでは消える時間があることです。自分に足らないもの、自分の弱さ、それを補うための何かの工夫がないのか。牧師としての仕事の仕方などなど。この6月から自分の身の置き方を変えるわけですが、これまで慣れ続けてきたことを、もう一度見直す必要があります。つまり慣れるべきこと、慣れてはいけないこと、工夫して変れる部分を見つけることです。<br />
旧約聖書のコヘレトの言葉という書に「1:9-10 かつてあったことは、これからもあり／かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。」とあります。一読すると、単なる厭世的な言葉のようにも思えるのですが、「自分自身が変らなければ」という一つの前提があるのではないでしょうか。「自分が変らなければ、世界も変らず、いつもと同じことの繰り返しなのだ」ということです。しかし自分が変化するとき、事態は変わります。<br />
?ペテロ1:24では預言者の言葉を引用して、こう言われています。「人は皆、草のようで、／その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、／花は散る。」世の動きに流され、移ろいゆく人の姿を表現しているようですが、コヘレトの言葉から考えると、つまりは同じことの繰り返しだというのでしょう。<br />
しかし、その箇所は「しかし」と言葉をついで続きます。「主の言葉は永遠に変わることがない。」主の言葉の変らなさは、私たちの繰り返しの人生ではなく、私たちに新しい変化を呼び覚ますものとなるのです。この動かないものの前で、私たちはまず立ち止まるのです。そして自分を見つめ、悔い改め、また新しく作り変えられていくのでしょう。<br />
用事があって出かけた旅行でしたが、貴重な休暇をいただいたことを感謝します。<br />

]]></content:encoded>
    <dc:subject>週報扉</dc:subject>
    <dc:date>2007-05-13T16:46:43+09:00</dc:date>
    <dc:creator>栄盛川</dc:creator>
    <dc:rights>栄盛川</dc:rights>
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    <title>一歩から二歩へ</title>
    <description>先週の月曜日、北九州連合総会と宣教会議がシオン山教会で行われました。宣教会議では、山田雄次氏(高須)、岩崎一宏氏(枝光)、城前和徳氏(シオン山)、杉野省治氏(富野）の発題を受けて、意見交換となりました。司会が奥田知志氏(東八幡)でした。
山田氏は、次のような趣...</description>
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先週の月曜日、北九州連合総会と宣教会議がシオン山教会で行われました。宣教会議では、山田雄次氏(高須)、岩崎一宏氏(枝光)、城前和徳氏(シオン山)、杉野省治氏(富野）の発題を受けて、意見交換となりました。司会が奥田知志氏(東八幡)でした。<br />
山田氏は、次のような趣旨で話されました。「福岡城西教会の開拓伝道のときに靖国問題が起こっていったのですが、教会が出来上がってからそうした問題にもかかわれば良いと思っていた。しかし、教会のかたちが出来上がる前にやはり教会としての内実を備えていかなければいけないと教えられた。高須教会の開拓伝道では、祷援会という、教会を越えた働きの中で伝道が展開された。これから北九州連合はそうした教会形成のために、教会同士の協力をするために、連合センターを作っていかなければならないと思う。」<br />
城前氏は、「シオン山教会に赴任してきた時に、教会の使命は地域伝道だと言われたが、自分はシオン山教会は西南女学院に対する宣教の使命があると考え、大いに議論した。各教会には独自の宣教の使命がある。それが明らかになることで、かえって宣教協力が進むのではないか。」<br />
杉野氏は、「今、教会間をつなぐ働きが求められている。北九州ブックセンターはそうした意味で重要である。超教派的な働きも期待できる。大きな教会は自己満足になり、小さな教会は自分のことだけで精一杯になる。どちらも内向きになりやすいが、各教会が互いに対して開かれていくべきである。」<br />
岩崎氏は、「北九州の現状を考えると牧師の兼職や兼牧の可能性もあるのではないか。北九州の特徴はホームレス支援やカルト救出支援や西南女学院があるということ。また音楽関係などなど、全国に誇れるような活動している教会が多い。それを豊かにしていく必要があるのではないか。そうした働きを各教会でさらに有効利用するためには、教会の間の情報交換が必要であり、センターの必要を感じる。」<br />
その後、意見交換がありましたが、最初、兼職や兼牧といったことに話題が集まりました。しかし、そうしたこと一つとっても、各教会の教会理解や信仰理解が互いに明らかになり、また信頼関係がないと、実現しません。まったく協力しようという意思のない、また理解しあう気持ちのない二つの教会を、一人の牧師がかかわることはできないからです。<br />
結局、さらに教会間の関係を密にしていこうということが語り合われました。昨年度行われた「一歩プログラム」は今年も継続され、すでに高須教会と富野教会は合同礼拝を持とうと話し合われているそうです。わたしたちも小倉教会とのかかわりを深めることや、他の教会との交流プログラムを持って、一歩を、二歩へと進めて行きたいものです。<br />

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    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2007-05-06T04:57:35+09:00</dc:date>
    <dc:creator>栄盛川</dc:creator>
    <dc:rights>栄盛川</dc:rights>
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    <title>自分を見る</title>
    <description>胃ガンの手術後、半年に一度、CTスキャンとかレントゲン、エコーの検査を受けています。また血液検査をして、ガン細胞の活性化（つまり転移）があるか検査します。検査ですから、見落としというのもあるのですが、一応その結果、異常なしとなることは、やはり掛け値なしに...</description>
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<img src="images/ct.jpg" width="150" height="120" alt="" class="pict" />胃ガンの手術後、半年に一度、CTスキャンとかレントゲン、エコーの検査を受けています。また血液検査をして、ガン細胞の活性化（つまり転移）があるか検査します。検査ですから、見落としというのもあるのですが、一応その結果、異常なしとなることは、やはり掛け値なしに嬉しいものです。先日、手術後2年目の検査に「異常なし」という判断があり、ほっとしたところです。<br />
CTスキャンでは、ベッドに横になり、そのベッドごと動いて大きな輪の中を通過していくという経験をします。万歳をした格好で、横になるのですが、1分もかからないで「はい終わりです」と言われます。そのようにして、胴体の横断面写真を何枚もたぶん二十枚以上とります。レントゲンカメラと同じ原理ですから、放射線を受けるのですが、その量は通常のレントゲンと比較すると400倍にもなるそうです。半年に一度などといわず、もっと検査をと思わないではないですが、やはり最小限にとどめておくべきなのでしょう。<br />
写真を見せてもらいましたが、異常のない写真というのは見ても分からないものです。胃袋がないので、肝臓だけがやたらに大きな臓器だなあという印象がある程度でした。PETという検査方法があります。これは全身のガン細胞を発見するのに都合のいいものなのだそうですが、話に聞くところによりますと、その機械を通して体を見ると、ガン細胞が活性化しているところがピカッと光るのだそうです。どこか一箇所で光っている場合は、放射線治療の対処方法があるのだそうですが、夜空の星のように、さらには大都会の夜景のようにピカピカしていると、放射線治療という方法は難しいということになります。<br />
普段は見えないからだの中をそのような方法で見るというのは不思議な体験です。まさに自分を客観的に見ているわけです。それも鑑賞するため、眺めるのではなく、問題がないか吟味するために専門家と一緒に見るのです。<br />
心の状況を見ることは、どうでしょうか。たぶん普段のわたしたちはやはり、表面的な都合のいいところを見て、都合の悪いところを見ないで過ごしているのです。いつも自分の欠点を探している人は、積極的な人生を送れないものだからです。しかし必要があるならば、またたまには、自分の中をじっと見る体験も大切なのではないでしょうか。<br />
別に精神科に行くことを勧めているのではありません。聖書を読むということは、神やキリストの視点で自分を見つめなおすことではないかと思うのです。自分ひとりではそのように客観的に見ることはできないかもしれませんが、聖書を通して、信仰の目で自分を見ることが出来ると思います。すなわち「神は自分を今どのように見ておられるのか」と問うことです。体中がPETで見るようにピカピカと光り輝いて、問題点だらけだと感じることでしょうが、しかしその時にも治療方法がある、まだ見捨てないといってくださる神がおられるのです。<br />

]]></content:encoded>
    <dc:subject>週報扉</dc:subject>
    <dc:date>2007-04-21T17:38:53+09:00</dc:date>
    <dc:creator>栄盛川</dc:creator>
    <dc:rights>栄盛川</dc:rights>
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    <title>テーマを持って</title>
    <description>先週金曜日、西南女学院で「キリスト教学」の講義を始めました。午前は観光文化科、午後は英語科の、どちらも一年生のクラスです。新学期の最初のことなので、自己紹介を兼ね、わたしとキリスト教の出会いということで話をしてきましたが、午前のクラスはかなり反応があっ...</description>
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先週金曜日、西南女学院で「キリスト教学」の講義を始めました。午前は観光文化科、午後は英語科の、どちらも一年生のクラスです。新学期の最初のことなので、自己紹介を兼ね、わたしとキリスト教の出会いということで話をしてきましたが、午前のクラスはかなり反応があって楽しく過ごせました。問題は午後のほうです。まあ私語の多いこと。勝手に入って、勝手に出て行く学生がいます。さすがに講義の最後に少し大きな声で「人に迷惑になる私語はいけない」と言ってしまいました。<br />
以前にも西南女学院で講義や、チャペル説教を担当してきましたが、印象として英語科の態度はよくありませんでした。どうしてでしょう。少なくとも一年生というのはかなり緊張を持っているはずで、「キリスト教学」ではだらしなくしていてもいいなどとは思ってはいないでしょう。おそらく他の授業でもその態度はよくないのではないでしょうか。<br />
以前担当していたクラスには短大の保育科がありました。このクラスの雰囲気はよかったですね。想像してみますが、保育科とか看護科、観光文化科というようなクラスの学生は、それぞれかなりの意識をもって、入学してくるのではないでしょうか。その学びを充実させることは、将来の仕事に直接大いに役立ちます。大学で学ぶテーマがはっきりしているのです。<br />
それに対して英語科の学生たちは、英語に興味があるから入ってくるに違いないけれども、比較的あいまいでしょう。単に英語が得意だというに過ぎない学生もたくさんいるでしょう。我が家の三番目の子どもは今語学を主に学んでいるのですが、大学で一年たってみて専門を変えるのだそうです。自分の興味を一年かけて絞れてきたのだといいます。学びたいテーマをはっきりとさせる、そのような意識をした学生の生活全体はやはり引き締まるのではないかと思います。<br />
それは学生だけではなく、誰でも自分の人生の中でテーマを持つことは大切でしょう。キリスト者は「キリストを証する」というテーマを持った者として教会に集まっています。そのことに集中し、自分の人生を整えていきたいものです。<br />
願わくは英語科の学生たちも、（できるだけ英語という分野の中で）自分の学ぶテーマをしっかりとしかも早い段階でつかんで欲しいものです。わたしとしては、この機会に彼らにキリスト教を伝え、人生の目標を持つことの重要さを分かち合いたいと願っています。始まったばかりのクラスに神の守りがありますように。<br />

]]></content:encoded>
    <dc:subject>週報扉</dc:subject>
    <dc:date>2007-04-15T09:08:16+09:00</dc:date>
    <dc:creator>栄盛川</dc:creator>
    <dc:rights>栄盛川</dc:rights>
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  <item rdf:about="http://blog01.wakamatsubaptist.com/?eid=521113">
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    <title>アイドリングストップ</title>
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わたしは今「アイドリングストップ」を実行しています。自動車の運転をしていない人は何のことやらと思われるでしょうが、このところ盛んに推進されている環境を守る合言葉です。
自動車は交差点などで止まっているときも、エンジンは動いています。ただ力を車輪に伝え...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<br />
わたしは今「アイドリングストップ」を実行しています。自動車の運転をしていない人は何のことやらと思われるでしょうが、このところ盛んに推進されている環境を守る合言葉です。<br />
自動車は交差点などで止まっているときも、エンジンは動いています。ただ力を車輪に伝えていないか、動き出そうとする力をブレーキで無理に止めているかのどちらかです。この状態をアイドリングと言います。「無駄をしている」という意味の英語ですが、エンジンが動いていれば、排気ガスが出ます。燃料も使われます。だから自動車を止めたら、エンジンをストップさせたほうがいいのです。<br />
ところが自動車のエンジンの調子が悪いときは、なかなか始動できません。路上でエンジンが動かなくなってしまうと、迷惑になります。ですからこれまではエンジンは目的地に到着するまで、動かし続けるのが普通でした。しかしこのところ技術が向上したのでしょう。エンジンストップにはなりませんので、アイドリング状態（空回り状態）をストップしましょうと「アイドリングストップ」が提唱されてきたというわけです。<br />
しかしやってみるとこれが難しいのです。自動車を止めればエンジンを止めるだけのことなのですが、まだ自然には出来ていません。結果として、わたしは交差点で後ろの自動車から催促のクラクションを受けることが多くなりました。<br />
今までだと前の車が止まれば止まる、動き出せば自分も動き出す、という感覚でした。もちろん信号のあるところでは、一応信号を見ていますが、前に自動車が止まっていれば、注意する度合いはかなり弱くなります。ところがエンジンを止めていると、そうはいきません。ああ横の信号が点滅し始めたなあ、ほら赤になった、こっちの前の信号が青になるぞ、そろそろ前の前の前の車が動き出すころだ、さあエンジンをかけよう、そしていくつかのことをしてスタートということになります。つまりは最前列で青信号を待っている状態よりももっと緊張が強い状態と考えてください。<br />
そのうちそうしたことに慣れてくるのでしょうか。むしろわたしはこれから歳をとっていきますので、かえって何でも遅く、失敗を繰り返すことになりそうです。しかし、確かに空気を汚すことは減るし、ガソリンも消費しなくてすみます。そのけっか、信号待ちするときのストレスがかなり減ります。ということは前方の信号が黄色点滅を始めたら、あっさり止まろうと思えます。だから安全性がずいぶんと高まります。いいこともたくさんあるのです。<br />
わたしのような運転手が増えていけば、つまり交通渋滞が増えるでしょう、あちらこちらの交差点でクラクションが鳴らされることになると思います。このアイドリングストップ運動はそうした場面を忍耐する人の心のゆとりを求めている運動なのでしょう。聖書から「まことの忍耐」を学ぶ人は幸いです。<br />
第一コリント13章「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。」<br />

]]></content:encoded>
    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2007-04-08T09:06:53+09:00</dc:date>
    <dc:creator>栄盛川</dc:creator>
    <dc:rights>栄盛川</dc:rights>
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    <title>「許し」のない世界</title>
    <description>どうもこのところ気分が優れません。いろいろな理由の中に、報道されている「慰安婦問題」や「教科書問題」があります。われわれの首相は、「軍隊が直接、強制的に連行したという証拠はない」と言っています。戦争中の沖縄でたくさんの人が集団自決（自殺）をしているので...</description>
<content:encoded><![CDATA[
どうもこのところ気分が優れません。いろいろな理由の中に、報道されている「慰安婦問題」や「教科書問題」があります。われわれの首相は、「軍隊が直接、強制的に連行したという証拠はない」と言っています。戦争中の沖縄でたくさんの人が集団自決（自殺）をしているのですが、今回の高校の教科書で軍隊が直接命令したのではない、とされるそうです。これも「直接的な証拠がない」からです。<br />
捕虜になったらいけないと教えられ、捕虜にされたら日本兵がそうしたように、ひどい目にあうぞと言われ、沖縄のあちらこちらで集団自決がありました。敗戦後、アメリカ兵たちが東京にやってくるというとき、最初に役所で議論したことは、アメリカ兵のための慰安所をどこに作ろうかということでした。<br />
どうして証拠がないと言えるのでしょうか。日本の軍隊や政府の直接関与を否定するのはなぜでしょうか。結局、補償問題なのでしょうか。しかし、すでに裁判所が時効を理由に戦争のときの個人的な被害の訴えを退け続けているのです。<br />
結局、日本は「許し」のない世界なのでしょうね。正当でなければ罰を受けなければならないので、言い訳をし続けているのです。これからアジアとますます深く付き合っていかなければならないのですが、正当化できないといつまでも戦争のことを持ち出される、何とか強弁して自分たちが「それほどひどくなかった」と言っておきたいのでしょう。<br />
過去、中国はモンゴルから攻められ、ひどい目にあいました。モンゴルでは、他国を侵略したチンギス･ハーンを今でも英雄視しています。だからと言って彼らが反省が足りないなどと批判する声は他の国から聞こえません。それは今のモンゴルが他国に対して、脅威となっていないからです。人間は許し合うことが出来るのです。<br />
しかし日本はその経済力や軍事力において、確かにアジアの諸国にとって大きな脅威です。その日本の姿勢によって自分たちのあり方が影響されるのです。その日本が、昔のやったことは大した事ではないと言えば、これからも同じようなことをするとアジアの人々が感じるのは当然でしょう。このままでは日本はアジアの中で不幸になるばかりです。<br />
キリストは、誰が殺したのでしょうか。直接はローマ兵です。その殺害を命じたのは、ローマの代官であったピラトです。そしてそれを希望したのはユダヤ人の指導者たちであり、それを承認したのはユダヤ民衆でした。そしてそのような危機においてキリストを見捨てた弟子たちがいます。では、キリスト殺害に、直接関与していない人々は罪がないのでしょうか。そのようなことはありません。十字架の周囲にいた人々はみなキリストの死に責任があります。だからこそキリストが「許す」と言ってくださったその愛にあずかることができるのです。<br />

]]></content:encoded>
    <dc:subject></dc:subject>
    <dc:date>2007-04-01T18:21:01+09:00</dc:date>
    <dc:creator>栄盛川</dc:creator>
    <dc:rights>栄盛川</dc:rights>
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    <title>『国家神道と民衆宗教』</title>
    <description>
村上重良著『国家神道と民衆宗教』という本を読みました。村上先生(1928-1991)は、私が神学生だった時に、西南神学部で宗教学の集中講義を担当してくださった方で、日本の宗教学の中で、特にこの本のテーマに関しては権威と呼ぶべき人です。『日本宗教事典』も著してい...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<br />
村上重良著『国家神道と民衆宗教』という本を読みました。村上先生(1928-1991)は、私が神学生だった時に、西南神学部で宗教学の集中講義を担当してくださった方で、日本の宗教学の中で、特にこの本のテーマに関しては権威と呼ぶべき人です。『日本宗教事典』も著しています。<br />
『国家神道と･･･』の内容は、?国家神道の確立過程、?教派神道の歴史的性格、?丸山教の成立と展開、?大本教の歴史という流れですが、そこには明治政府がどれほどの力を注いで宗教を操ろうとしたかということが、詳しく述べられています。<br />
この本を手にとってみようと思ったのは、実は昨年の秋にタイに行ったことと関係があります。タイ王国は、立憲君主国で、戦前の天皇制に近い印象を受けました。<br />
しかし、同時にタイは仏教国です。男性のほとんどは一度は僧侶になります。それが一年であったり数ヶ月であったりするそうですが、還俗（げんぞく：僧侶が一般人に戻ること）した後も、熱心な仏教徒であることは間違いありません。<br />
日本も仏教国であったはずであり、天皇一家も仏教徒であったはずなのに、どうして国家神道が作られていき、仏教国ではなくなっていったのでしょう。もし明治政府が神道ではなく、仏教を基本にして立憲君主国を作り上げようとしたなら、どうなっていたのだろうとも思います。<br />
しかし、事実上そのようなことにはなりませんでした。江戸幕府は江戸町奉行と勘定奉行の他に、それらよりも格が上の扱いで寺社奉行をおいていました。財政や江戸の治安維持よりも、宗教を押さえることが重要なことだったのです。その認識は明治政府によってさらに徹底されることになります。私たちはキリスト教が圧迫されていったと認識していますが、実は仏教も神社もいわゆる布教が厳しく制限されただけでなく、各地の神社は「合併」されるという仕方で、廃止させられていきました。明治初年には１９万あった神社が大正初年には１１万になっていたそうです。減らされた神社の土地は、明治政府のものとされていきました。<br />
そして、合併で残った神社も、天皇崇拝を中心とするように誘導されていったのです。各地で特徴ある祭儀が営まれていたのですが、神社祭式も統一するという政府の方針で、習俗や民俗行事が衰えていきました。<br />
丸山教や大本教、天理教や黒住教、そうした新宗教は、天皇制の圧迫を背景に、人々の宗教的情熱が作り上げていったものと言えるでしょう。戦後教会にたくさんの人々が集まったのも、天皇制から自由にされたときの情熱があったからではないでしょうか。<br />
日本の伝統を大切にしましょうと言っている勢力は、明治以降の近代天皇制を伝統、習慣、民俗に基づくものだと言っています。この大きな欺瞞を見抜いていかなければいけないと思わされました。<br />
ルカ19:40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」<br />

]]></content:encoded>
    <dc:subject>週報扉</dc:subject>
    <dc:date>2007-03-27T12:43:21+09:00</dc:date>
    <dc:creator>栄盛川</dc:creator>
    <dc:rights>栄盛川</dc:rights>
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    <title>「苦しむ者のための信条」</title>
    <description>
本日の聖書教育に引用されている詩をご紹介しましょう。読み人知らずの詩ですが、多くの人に愛されている詩です。

「A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED」
I asked God for strength, that I might achieve　　
I was made weak, that I might learn humbly to o...</description>
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<br />
本日の聖書教育に引用されている詩をご紹介しましょう。読み人知らずの詩ですが、多くの人に愛されている詩です。<br />
<br />
「A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED」<br />
I asked God for strength, that I might achieve　　<br />
I was made weak, that I might learn humbly to obey...<br />
I asked for health, that I might do greater things　　<br />
I was given infirmity, that I might do better things...<br />
I asked for riches, that I might be happy　　<br />
I was given poverty, that I might be wise...<br />
I asked for power, that I might have the praise of men　　<br />
I was given weakness, that I might feel the need of God...<br />
I asked for all things, that I might enjoy life　　<br />
I was given life, that I might enjoy all things...<br />
I got nothing that I asked for -- <br />
  but everything I had hoped for<br />
Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.<br />
　I am among all men, most richly blessed!<br />
<br />
成功しようと神に強さを求めたが、従順を学ぶようにと弱くされた。<br />
さらに偉大なことをしようと健康を求めたが、よりよきことをするようにと病を与えられた。<br />
幸福になろうと富を求めたが、賢くなるようにと貧しさを与えられた。<br />
人々の賞賛を得ようと力を求めたが、神を求めるようになるために弱さを与えられた。<br />
人生を楽しむためにすべての事を求めたが、すべての事を楽しむために人生を与えられた。<br />
求めたものは何一つ得られなかったが、望んでいたものはすべて得られた。<br />
このような私にもかかわらず、言葉にならない祈りは聞き届けられた。<br />
わたしは全ての人の中で、もっとも豊かに恵まれた者である。<br />
(原口徹訳)<br />

]]></content:encoded>
    <dc:subject>週報扉</dc:subject>
    <dc:date>2007-03-18T13:53:45+09:00</dc:date>
    <dc:creator>栄盛川</dc:creator>
    <dc:rights>栄盛川</dc:rights>
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    <title>「祝福の祈り」について</title>
    <description>
礼拝の最後に、「祝福の祈り」（祝祷）がささげられます。古くから「主の祈り」とともに、教会の礼拝の中でささげられていました。パウロの手紙の多くが、「祝福の祈り」の形式で終えられているのも、彼の手紙が最初から、礼拝の中で読まれることを前提として書かれてい...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<br />
礼拝の最後に、「祝福の祈り」（祝祷）がささげられます。古くから「主の祈り」とともに、教会の礼拝の中でささげられていました。パウロの手紙の多くが、「祝福の祈り」の形式で終えられているのも、彼の手紙が最初から、礼拝の中で読まれることを前提として書かれていたからだと言われています。これは礼拝を終えて、この世の迫害の状況の中に送り出される信者を力づける「派遣」の意味を持っていたのです。<br />
その後の教会も、第二コリント13：13「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」や、ヘブル13：20-21を用いてきました。ルターの宗教改革以降、民数記6：24-26「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」が一番用いられてきましたが、日本ではどういうわけか第二コリントの言葉が一般的なようです。わたしも第二コリントの言葉によりお祈りしています。<br />
カトリックでは叙階という特別の儀式を受けたものが、司式者として礼拝を行っていました。祝福の祈りも礼拝の最後や途中で司祭によって祈られていました。先日も、カトリックのミサに出席しましたが、祝福の祈りがささげられていました。ただしその後に、必ず会衆も祈ります。「司祭とともに（神の祝福がありますように）」と。祝福の祈りは会衆も祈るものなのです。プロテスタントでも同じような式文でお祈りしているところがあります。<br />
バプテストでは、説教者は「司祭」ではありませんので、会衆による「司祭とともに」という祝福の祈りはなくなりました。代わりとして「アーメン」という言葉が会衆から発せられるようになったのでしょう（これは私の推測です）。<br />
時が経るといつのまにか、この祝福の祈りは按手礼という儀式を受けた牧師だけが行えるもののように扱われるようになりました。特に日本ではその傾向が強くなりました。なぜそうなったのかはわかりません。按手礼が牧師の権威のよりどころとなり、その権威を持って祝福の祈りがなされたのでしょう。もしかしたら、禅宗の僧侶が葬儀の最後に行う「喝」という掛け声のように受け止められていたのかもしれません。<br />
1月に牧師不在のときの礼拝では、祝福の祈りがなく、黙祷を持っておわりました。黙祷での礼拝の終わり方もあっていいとは思いますが、長い教会の歴史の中で大切にされていた祝福の祈りをしてもいいのではないかということが執事会で話されました。<br />
来週は、また牧師不在の礼拝となります。説教者により、派遣の意味をこめて第二コリント13:13が祝福の祈りとして読まれることが執事会で確認されました。<br />

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    <dc:subject>週報扉</dc:subject>
    <dc:date>2007-03-13T10:39:26+09:00</dc:date>
    <dc:creator>栄盛川</dc:creator>
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    <title>31年カレンダー</title>
    <description>
牧師室に大きなカレンダーが貼ってあります。これはちょっとめずらしい31年カレンダーです。1977年から2007年まで使えるものです。キリストの使徒たちのマークが縁どりとしてあしらわれております。15年前、私が若松バプテスト教会に着任した時に、旧会堂の牧師室に貼っ...</description>
<content:encoded><![CDATA[
<br />
牧師室に大きなカレンダーが貼ってあります。これはちょっとめずらしい31年カレンダーです。1977年から2007年まで使えるものです。キリストの使徒たちのマークが縁どりとしてあしらわれております。15年前、私が若松バプテスト教会に着任した時に、旧会堂の牧師室に貼ってありました。どなたかが前任の田口牧師か、もしかしたら岩切牧師にくださったのでしょう（1977年は岩切牧師が神奈川県の百合丘教会に移られた年でしたが）。ちなみに、1977年は私が大学を卒業した年であり、伝道者としての仕事を始めた年でもありました。<br />
はじめてこのカレンダーを眺めたときに、2007年というのはまるで実感がなく遠い将来のことでしたが、ふと気づくと今年がまさに2007年ではありませんか。実は書かれてある数字があまりに小さいものですから、デザインとして眺めていただけで、これまでカレンダーとしては見ていなかったのです。それで、もうこのカレンダーも今年でお役ごめんだなあと思っておりました。紙でできておりますので、31年間、よくもったとも思いました。<br />
その後しばらくしてから、これまたふとした拍子に、31年間もあったら、来年つまり2008年と同じ曜日めぐりの年もあるのではないかと探してみましたところ1980年がそうでした。また2007年は1979年と同じでした。つまり、28年ごとに同じカレンダーが使えるということです。考えてみれば、一週間は7つ、うるう年が4年に一度ですから、計算すれば当たり前のことでしょうが、私にとってはちょっとした発見でした。と同時にこのカレンダーはまだ使えるということでもありました。2008年になれば、1980のところに押しピンでもうっておけば、それでその年のカレンダーになるのですから。<br />
旧約聖書の『伝道の書』(新共同訳聖書では『コヘレトの言葉』）1章9節に「かつてあったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。」とあるのは、こうした暦が繰り返されることから発想された言葉かもしれません。「新しいこと」は良いことだという価値観の中にいる現代人が、この言葉を読むと、何か虚無主義的な印象を受けます。しかし、過去のこととして忘れ去られるだけのことが、実は未来のことでもありうるということであり、人は歴史に学ぶべきという教訓にもつながることです。<br />
日本の暦では60が還暦ということですが、太陽暦では28で還暦ということになります。私もあと4年で二回目の還暦を迎えるということになり、気持ちを新たにするということにもなるでしょうか。<br />

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    <dc:subject>週報扉</dc:subject>
    <dc:date>2007-02-25T16:33:02+09:00</dc:date>
    <dc:creator>栄盛川</dc:creator>
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    <title>アニマルセラピー</title>
    <description>
このところ高齢者関連の施設があちらこちらに出来ています。グループホームという小さ目の施設が目立つのですが、中村冨美子さんの施設は違っていました。特別養護老人ホーム｢ソレイユ中井｣です。ソレイユというのは「ヒマワリ」という意味のフランス語なのだそうです。...</description>
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このところ高齢者関連の施設があちらこちらに出来ています。グループホームという小さ目の施設が目立つのですが、中村冨美子さんの施設は違っていました。特別養護老人ホーム｢ソレイユ中井｣です。ソレイユというのは「ヒマワリ」という意味のフランス語なのだそうです。「北九州市の花」がツツジとヒマワリだということも、初めて知りました。<br />
できたばかりの施設で、きれいなのは当たり前ですが、ずいぶん広い感じがします。ホールも廊下もゆったりと作ってあります。帰り際に犬の鳴き声がするので、ふと見ると小型犬ばかりが6匹ほど置かれている一角がありました(チワワ、マルチーズ、ミニチュアダックスフンド、プードル、パピヨン)。どれも人懐こい犬たちです。一匹だけが何か不安を感じているのか鳴き声を出していました。はり紙に｢犬がないている時は近づかないでください｣とありましたので、しばらく犬たちを眺めただけで帰りました。<br />
高齢者の施設に犬をおいて、｢アニマルセラピー｣と言っていることを、テレビのニュース番組などで見知っていましたが、実際にそのような施設を見たのは初めてでした。そういえば西園のケアハウスの玄関奥に鯉を飼っている池があるのもその「走り」なのでしょうね。セラピーとは治療法という意味です。動物たちと接することが、病気の治療に役立つのだそうです。人になついてくる動物は、何よりも、心の安らぎももたらしてくれます。それが体にもいい効果をあげるというべきでしょう。<br />
一説によると人間はほぼ全面的に本能を見失っている動物なのだそうです。しかし完全になくしてしまっているのではないでしょう。本能とは生きるために備わっているものです。つまり行き続けようとする力そのものだと言っていいかと思います。病気になり、体力も気力も失いかけているときに、その備わっている生きようとする力が大切になります。長い入院生活をしている場合、その生きようとする力がだんだん失われていくことがあります。医療スタッフが必要な治療をするだけでなく、訪問する者たちが、声かけをし会話をすることが大切だといわれるのはそういう時です。<br />
動物たちは強い本能によって生きています。その行動が一見人間と同じように行動しているように見えたる場合も、たいてい別の理屈で動いています。たとえば計算する犬という見世物がありますが、そういう場合にも、飼い主の動作に反応して餌をもらおうしているだけです。しかしアニマルセラピーの考え方では、むしろそのような動物がそばにいるというだけで、人間は見失った本能を思い出すのかもしれません。<br />
創世記によりますと、神は動物たちを人間のパートナーとして創造されました。神は、そのように、まさに人間が弱ったときに力になってくれるパートナーを造ってくださっているのです。<br />

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    <dc:subject>週報扉</dc:subject>
    <dc:date>2007-02-18T15:32:25+09:00</dc:date>
    <dc:creator>栄盛川</dc:creator>
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    <title>小学校の天井</title>
    <description>
深町小学校の入学説明会に主任児童委員として参加しました。名刺を配って、あいさつして、顔を覚えてもらえばいいので、ほとんど話はしなかったのですが、小学校の教室に何年ぶりかに入り、またそこで声を出したのは卒業後初めてではないでしょうか。ご存知の通り、深町...</description>
<content:encoded><![CDATA[
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深町小学校の入学説明会に主任児童委員として参加しました。名刺を配って、あいさつして、顔を覚えてもらえばいいので、ほとんど話はしなかったのですが、小学校の教室に何年ぶりかに入り、またそこで声を出したのは卒業後初めてではないでしょうか。ご存知の通り、深町小学校は今年いっぱいで移転し、新しい校舎になります。校区のはずれに移るので、あまりいい移転とはいえないと思いますが、今の校舎のある敷地に新校舎を建てるよりも、ずいぶん節約になるのだそうです。<br />
今の校舎が建って何年になるのでしょう。鉄筋コンクリートで作られたこの校舎は修理して使うこともできるだろうにと思っていましたが、中に入ると相当痛んでいます。使い続けるとしてもかなりの補修費がかかることでしょう。若松バプテスト教会の旧会堂を壊すという決定を教会総会でしたばかりですので、そんなことをやはり考えてしまいます。<br />
ところで、教室(視聴覚教室)に入ってまず感じたことは、天井が高いということでした。1年ほど前に教室の天井の高さを見直すというような報道があったのを思い出しました。何でも明治時代に三メートルと決めてから、ずっとその基準が生きているのだそうです。昔の日本人は、今よりも身長は低かったでしょうから、さらに高い天井を感じたことでしょう。特に理由もなくそう決まったということでしたが、お寺の本堂の高さでも参考にしたのでしょうか。そのころは確か60人学級ぐらいだったので、天井ぐらい高くしておきたかったのかもしれません。結局は、最低基準である2.1メートルを超えていればいいということになったと思いますので、今度の新校舎ではもう少し低くなることでしょう。なにせ建築費が違うことでしょうから。<br />
それにしても、一度基準というものが決まれば、何かの理由がない限り、変えないという姿勢は、やはりお役所の特長でしょう。またその基準に何かの根拠が書かれてあれば、その基準の妥当性を、書かれてある根拠から検討するということもしやすくなるでしょうが、そういうこともなければ、ますます考えにくいということなのかもしれません。<br />
私たちは、聖書という信仰の根拠を持っています。ヨハネ5:39「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたし(キリスト)について証しをするものだ。」バプテスト教会は、この聖書に基づき教会を造ってきたのです。確固とした根拠があったからこそ、教会の改革も出来たのです。私たちもこれから、いろいろなことを改革していくことでしょうが、聖書片手に議論していきたいものです。<br />

]]></content:encoded>
    <dc:subject>週報扉</dc:subject>
    <dc:date>2007-02-11T08:29:37+09:00</dc:date>
    <dc:creator>栄盛川</dc:creator>
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    <title>按手式</title>
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1月14日(日)に西戸崎教会で行われた按手式に出席しました。十数年前ごろは、牧師が初めて赴任した教会で、バプテスマと主の晩餐の司式と祝祷（礼拝の最後の祝福の祈り）の役目を委託する式であるとされてきました。新任牧師はこの式を迎えるために、2･3年待たなければな...</description>
<content:encoded><![CDATA[
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1月14日(日)に西戸崎教会で行われた按手式に出席しました。十数年前ごろは、牧師が初めて赴任した教会で、バプテスマと主の晩餐の司式と祝祷（礼拝の最後の祝福の祈り）の役目を委託する式であるとされてきました。新任牧師はこの式を迎えるために、2･3年待たなければなりませんでした。最近は、牧師就任式と同時に行われることが増えてきました。牧師就任式も教会が牧師の仕事を委託する式だとされているからでしょう。西戸崎教会は濱川耕一牧師の就任式と按手式を半年ほどずらしました。就任式は牧師就任のお祝いをすることに力点を置き、その仕事の委託をこの按手式で重点的に取り扱ったわけです。<br />
しかし大切な点は、按手を行う、一人の牧師に仕事を委託するのは誰かという主語の問題です。以前の按手式（按手礼）では、いよいよ按手祈祷（これは手を置いて祈るという意味の言葉で、ここでは頭に手を置いて祈ります）が始まると、教会員は会衆席のほうに下がり、他の教会の牧師たちが壇上にのぼって祈りました。そこでは牧師たちが按手祈祷の主語でした。<br />
教会の宣教の働きを委託するという意味で、それはふさわしくないということになり、今はほとんどの場合、教会員が按手祈祷を行い、他の牧師たちもそれに参加するという形になっていると思います。西戸崎教会もそうでした。バプテスト教会では、教会員一人ひとりが伝道者であり、福音の宣教者です。教会はいわば伝道者のグループなのです。バプテスマも主の晩餐も、教会が執行するのです。牧師はその教会からたてられてその仕事についているのです。牧師が説教をする場合もそうです。ですから、牧師の按手式は教会の権限と働きの再確認という意味が大きいのです。<br />
今回、おそらく最近の按手式にしては珍しく、三人の方（牧師の卒業した九州神学校の先生たちでしたが）が牧師の信仰告白や、教会の按手式理解について、かなり細かく課題を指摘するという場面がありました。一つ一つの指摘は大切なことでありましたが、その場でのやり取りはありませんでした。今後、教会として受け止めていくということでした。教会と牧師との信仰告白のつき合わせというようなことは、教会の中で十分なされていることが前提ですが、教会の外からの声を聞いていくということも大切だと思いました。<br />
ただ、一つの課題が残っていました。牧師のお連れ合いが按手祈祷のときに、前に出てきて床に座り、頭に手を置いてもらっていました。実は、私が市川教会で経験した按手礼でも、同じようなことがありました。そのときも課題に感じていましたが、いまだに解決していませんでした。牧師の任職の意味合いが大変あいまいになってしまうとも思うのです。按手式にこのようなかたちで牧師の家族が加わるというのはどのような意味があるのか、不明です。またキリスト教会全体の歴史の中で、また世界中のバプテスト教会の中でも、非常にまれなことだと思うのですが、どうして日本のバプテスト教会でこういうことが行われるようになったのでしょうか。今後の議論に待ちたいところです。<br />

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    <dc:subject>週報扉</dc:subject>
    <dc:date>2007-02-03T20:52:47+09:00</dc:date>
    <dc:creator>栄盛川</dc:creator>
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    <title>墓の前で泣かないで</title>
    <description>「千の風になって」という歌を、昨年暮れの歌番組で初めて聞いたという人も多いと思います。日本人による優しいメロディに載せられたこの歌の歌詞は、とても心に響くものでした。たちまち日本でも、あちらこちらで聞こえてくるようになりました。アメリカで、9.11の追悼集...</description>
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「千の風になって」という歌を、昨年暮れの歌番組で初めて聞いたという人も多いと思います。日本人による優しいメロディに載せられたこの歌の歌詞は、とても心に響くものでした。たちまち日本でも、あちらこちらで聞こえてくるようになりました。アメリカで、9.11の追悼集会において、原作者不明ということでこの詩が朗読されるようになっていたそうです。今はもう作者も分かっていて、メアリーフライ（Mary Elizabeth Frye,1905-2004)です。99歳で亡くなったんですね。ただし、少しづつ言葉の違った詩がいくつか広がっていて、それぞれ親しまれています。わたしは最初のものとされている詩が心に響きましたので、私訳をつけて紹介します。アメリカでは「わたしの墓の前で泣かないで」という題で広まっています。<br />
Do not stand at my grave and weep<br />
I am not there, <br />
I do not sleep<br />
I am in a thousand winds that blow<br />
I am the softly falling snow<br />
I am the gentle showers of rain<br />
I am the fields of ripening grain<br />
I am in the morning hush<br />
I am in the graceful rush<br />
Of beautiful birds in circling flight<br />
I am the starshine of the night<br />
I am in the flowers that bloom<br />
I am in a quiet room<br />
I am in the birds that sing<br />
I am in the each lovely thing<br />
Do not stand at my grave and cry<br />
I am not there I do not die<br />
<br />
私の墓の前で泣かないで。<br />
私はそこにいない。眠ってはいない。<br />
私は吹き渡る千の風の中にいる。<br />
私は静かに落ちる雪。<br />
優しく降りしきる雨。豊かに実った畑。<br />
私は、朝の静けさの中にいる。<br />
空に弧を描くうつくしい鳥たちの<br />
恵みに満ちた羽音の中にいる。<br />
私は夜の星影。<br />
咲き誇る花々の中に、落ち着いた部屋の中に、<br />
歌いわたる鳥たちの中に、<br />
愛すべきすべてのものの中に私はいる。<br />
私の墓の前で声をあげて泣かないで。<br />
私はそこにいない。死んではいない。<br />

]]></content:encoded>
    <dc:subject>週報扉</dc:subject>
    <dc:date>2007-01-29T09:18:03+09:00</dc:date>
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